第二曲《誰が明かりを消すのだろう》
何かを考えている、その途中から聞こえてきたような前奏。
まだ考えはまとまっていない。
けれど、頭の中を巡っていた言葉が、ふと無意識のうちに口からこぼれるように、
「誰が明かりを消すのだろう」
と歌が始まります。
この「明かりを消す」という言葉。
一日の終わりに部屋の明かりを消す、そんな日常的な行為のようでいて、私はここに「人生の終焉」を感じます。
いつか自分の人生にも、終わりがやってくる。
けれど、その明かりを消すのは一体、誰なのだろう。
誰が。
何が。
いつ。
私は知らない。
詩の中では、
恋人達は知っている。
子供達は知っている。
けれど、
「私は知らない」。
なぜ恋人たちは知っているのだろう。
なぜ子供たちは知っているのだろう。
そして、なぜ「私」だけが知らないのだろう。
この詩は、その答えを教えてはくれません。
林光の音楽もまた、答えを提示するというより、ひとつの問いの周りを思考が巡っているように感じます。
自分の人生がいつか終わるということを、人は知識としては知っています。それでも、自分自身の「終わり」を本当に理解することはできない。
だから、
「誰が明かりを消すのだろう」
という問いには、少し怖さがあります。
けれど同時に、とても静かな問いでもあります。
死を劇的に描くのではなく、夕暮れの中でふと自分の人生について考えてしまった。
そんな瞬間。
第一曲《夕暮れは大きな書物だ》では、夕暮れの中に「はじまること」と「終わること」がありました。
第二曲では、その「終わること」が、少しずつ自分自身へ近づいてきます。
夕暮れを眺めていたはずなのに、
いつの間にか、
自分の人生の終わりについて考えている。
けれど、どれだけ考えても、
私は知らない。
その答えのない問いを抱えたまま、第二曲は終わります。
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