次回から取り上げるのは、林光(1931–2012)による歌曲集
《四つの夕暮れの歌》(詩:谷川俊太郎)です。
本格的に一曲ずつ扱う前に、この回ではまず、作曲家・林光という存在と、
この歌曲集が持つ位置づけについて触れておきたいと思います。
作曲家・林光という人
林光は、戦後日本の音楽史の中で、常に「権威」や「前衛」という言葉から距離を取り続けた作曲家でもありました。
権力や制度に寄りかかることなく、むしろ市井の言葉や、弱い立場に置かれた声に耳を傾ける姿勢を、生涯貫いた人です。そのため彼の音楽には、誇示するような技巧や、感情を煽る劇性はほとんどありません。
代わりにあるのは、「人が生きている時間」に正面から向き合う、静かで誠実なまなざしです。
彼は、日本の現代音楽作曲家として語られることが多い存在ですが、同時に、非常に「人間の声」に近いところで音楽を書いた作曲家でもあります。
前衛的な技法や難解な構造を前面に押し出すのではなく、言葉、息、間、沈黙といったものを大切にしながら、人が生きている時間そのものを音にしようとした作曲家。
そこに、林光の音楽の核心があるように感じます。
オペラ、合唱、映画音楽、舞台音楽など、ジャンルは幅広いですが、
どの作品にも共通しているのは、
「声が、言葉を背負って立っている」という感覚です。
谷川俊太郎との出会い
《四つの夕暮れの歌》の詩を手がけたのは、谷川俊太郎。
説明するまでもなく、日本語の詩において特別な存在です。
谷川俊太郎の言葉は、平易で、やさしく、誰にでも開かれているようでいて、
同時に、とても深いところまで届きます。
日常語で書かれているのに、
生と死、孤独、時間といった根源的なテーマが、
気づかぬうちにそっと置かれている。
林光は、その言葉の「意味」だけでなく、
言葉が生まれる前の沈黙や、言い終えた後の余韻までも音楽にしています。
「夕暮れ」という時間
この歌曲集に共通するキーワードは、タイトルにもある「夕暮れ」です。
夕暮れは、昼と夜のあいだにある時間。
何かが終わり、何かが始まる、その境界。
明確な出来事が起きるわけではないけれど、
心のどこかが少し揺れる時間でもあります。
《四つの夕暮れの歌》では、
子ども、部屋、光、死者といったモチーフが現れますが、
それらは劇的に描かれることはありません。
むしろ、静かに、淡々と、問いかけるように置かれています。
音楽の佇まい
林光の書く音楽は、決して饒舌ではありません。
旋律はシンプルで、和声も極端に動くことは少ない。
しかし、その分、ひとつひとつの音に意味が宿ります。
ピアノは伴奏というより、
言葉の背後にある空気を支える存在。
語られない感情や、言葉にならない思考を、
音の間(あいだ)でそっと示しているようです。
歌う側には、
声で“表現する”というよりも、
言葉と一緒にそこに“在る”ことが求められているように感じます。
《四つの夕暮れの歌》は、
技巧を誇示する作品でも、感情を大きく吐露する作品でもありません。
だからこそ、歌い手にとっては、自分自身のあり方がそのまま音楽に映し出されてしまうような、少し怖さもある作品です。
何を語り、何を語らないか。どこまで踏み込み、どこで立ち止まるか。
その選択一つひとつが、音として残ってしまう。
けれど同時に、その静けさの中にこそ、この歌曲集が持つ深い魅力があるとも感じています。
次回に向けて
次回からは、
第一曲《夕暮れは大きな書物だ》を取り上げます。
「夕暮れ」という時間が、どのように言葉として立ち上がり、どのように音として響いているのか。
一曲ずつ、丁寧に見つめていきたいと思います。

今回の挿し絵:ジョルジョ・モランディ《Natura morta(静物)》
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